「グランパーニュ」と名付けられた、1個5キロの大きな大きなカンパーニュ。
大きく焼いたパンを量り売りする店がなかったわけではないが、それしかしない店は、ナショナルデパートが誕生した2003年にはなかった。あれから10年経った現在でも、ない。
見たこともないほどの大きさに、多くの人が度肝を抜かれたに違いない。少なくとも私はそうだった。
食べ手にとって、それはとてつもなく大きな「パン」だった。
でもそれは、作り手にとっては「パン」であるとともに、「物語」でもあった。作り手が思い描いたのは、ひとつの大きなパンを大勢が分け合って食べるという「物語」、それはパンを巡る原風景でもある。(*)
かつてヒトはパンを分け合って食べた。自分達の遠い祖先がしていた行為にもかかわらず、現代に生きる私達にはその「物語」はとても斬新だった。見た目のインパクトに加えて、その斬新さにも心惹かれた。
「物語」の中心にある大きなパンは、外側からはただの濃茶の塊だ。でも切り分けるとまぶしいくらい鮮やかな色彩があらわれる。そのことに私達は驚き、感動すら覚えた。
驚いたのは色だけではない。みずみずしさ、素材の組み合わせ…単に物珍しいだけではなく、ひとつのパンとしても私達を魅了した。
たくさんの人が同じ思いでそれを求め、大きなパンを分け合って食べた。各地へ配送できる現代では、遠く離れた知らない者同士が分け合うこともできる。そこにたくさんの「物語」が、生まれた。
今この瞬間にも、生まれている。
次々と、作り手は新しい物語を紡いでいる。人々が分け合うのは、感動する対象はいまやパンだけではなくなっている。
次は何をやってくれるのだろうか。パンから、「物語」が広がっている。
(*)古代において、パンは生命を紡ぐために必要な食べ物であり、だからこそ人々はそれは分かち合って食べるものでもあった。「仲間」と訳される「Company」という言葉は元々「共に(com)パンを食べる(panis)」ことを意味した。